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2021年共通テスト第2日程国語レビュー ④漢文

最終更新: 4月23日

明日と明後日は重要任務により東京にいます。

連絡取りにくくなりますがご容赦ください。


さて、今回は2021年1月30日に行われた、大学入試共通テスト第2日程、漢文です。


出典:曾鞏『墨池記』.


訳は基本的に直訳ベースで、意訳せずに訳せるところはできるだけ意訳せずに訳しています。

また、訳・書き下し文の正確性は一切保証しません。この訳を引用、利用したことによる損害には一切責任を負いません。

書き下し文

義之の書は、晩くして(晩にして)乃ち善し。

則ち其の能くする所は、蓋し亦た精力を以て自ら致す者にして、天成に非ざるなり。

然れども後世未だ能く及ぶ者有らざるは、豈に其の学(ぶこと)彼に如かざるか。

則ち学は固より豈に以て少くべけんや。

況んや深く道徳に造らんと欲するものをや。

墨池の上は、今は州の学舎と為る。

教授王君盛は、其の章れざるを恐るるや、晋の王右軍の墨池の六字を楹間に書し以之を掲ぐ。

又た鞏に告げて曰はく、「願はくは記あらんことを。」

王君の心を推すに、豈に人の善を愛して、一能と雖も以て廃せず、因りて以て其の後に及ぶか。

其れ亦た其の事を推して以て其の学ぶ者を勉まさんと欲するか。

夫れ人の一能有りて後人をして之を尚ばしむること此くのごとし。

況んや仁人荘士の遺風余思、来世に被る者如何ぞ。


(資料)

云はく、「張芝池に臨みて書を学び、池水尽く黒し。人をして之に耽ること是くのごとくならしめば、未だ必ずしも之に遅れざるなり」と。


現代語訳

王義之の書は、晩年になって初めて良い。

すなわち、それが(=王義之の晩年の書が)よくできたということは、きっと精力を尽くして自分で努力したからであって、天に与えられた才能ではないということだ。

そうではあるが、後世に(王義之に)及ぶものがいないのは、その学びが王義之に及ばないからではないか(=才能の差ではなく、努力の差だ)。

つまり、学びはもともとどうして欠けてよいものだろうか、いや決して欠かしてはならない。

ましてや、深く道徳を会得しようと望むものならなおさらだ(学びを欠かしてはならない)。

墨池のほとりは、今は州に設置された学校となっている。

教授の王君盛は、それ(=努力の重要性、王義之の偉大さ、墨池の故事)が表に現れない(=忘れられる、褒め称えられない)のを恐れたのだろうか、「王義之の墨池」の6字を柱の間に書いて、それでこの文字を掲げた。

また私に告げて言うには「何か書いてほしい(=王義之について)」

王君盛の心を推測すると、きっと人の善性を愛していて、たとえ一つの能力(=学生たちの?)であってもおろそかにせずにいて、そのことによって(王義之の)業績に及ばせようとしているのではないか。

また、そのこと(=王義之の故事)を推奨して、それでそこで学ぶ者を励ましたいと思っているのだろうか。

そもそも、人が一能(=書の能力)があって、後世の人にこの技能を尊重させるのがこのぐらいの(甚だしい)ことである。

ましてや、仁愛の徳を備えた人や行いの立派な者が、後世に与える影響は、いったいどれぐらいのものであろうか、いや計り知れないぐらい大きい。


(資料)

言うことには、「張芝は池に臨んで書道を学び、池の水が(墨で)すべて真っ黒になった。人に、書道に熱中することをこのぐらいさせられたならば、まだ必ずしも張芝よりも劣るとは限らない(=張芝を超えられたかもしれない=現実は努力が足りないから超えられなかった)。


解釈、解法上のポイント

・リード文で「王義之に関する故事」の話であることを意識しておく。でないと、3行目「墨池のほとり」以降の話の趣旨がかなりつかみにくくなる。あくまで「王義之」の話なのだ、という認識を持って中盤以降を読めたかどうかが点数を左右するはず。


・1行目「晩=晩年」という言葉を知っているかどうか。

「すなわち」は「イコール」の働きなのだから、つまり「若いうちの作品は大したことなかった」ということ。→問1(ア)解答根拠

つまり「才能ではなく、努力によってすばらしい書を生み出せるようになった」という結論が導き出せる。

この「努力が大事」というメッセージをキャッチできたかどうかが読解上最初のヤマ場と言える。


・空欄Xは「王義之はすごい!」という話をしていることを前提に考えれば簡単。

「王義之に勝てるものは誰も今のところいない」。

そしてそれは、才能の差ではなくて努力の差なのだ、と前段の話と話がつながる。


・「豈」は多くの場合反語なので、その前提で問題を解こうとすると、選択肢に反語がないことに気づいて慌てる。まず「豈」には反語だけでなく、

疑問(もしかして~だろうか?)

詠嘆(なんと~ではないか)

の意味があることを知っていたかどうか、これが一つ目のポイント。

また、反語で訳すと明らかに意味が通らない。

反語で訳してしまうと「彼=王義之に及ばないことがあるだろうか、いや、及ぶ」という訳になってしまい、王義之が後世の書家たちよりずっとレベルが低いことになってしまう。これはストーリー上ありえない展開。


・そして直後の波線部イで、今度は反語の「豈」が出てくる。

本来「少」は動詞として取るほうが自然だろうが、仮に形容詞「すくなし」と解釈して「少なかるべけんや」と読んでも大意に影響はない。

要するに「王義之でさえ努力してるんだから、他の書家が勉強が少なくていいのか? いいわけないだろ?」という意味。


・次の「況んや深く~」の文が、この文章全体の結論になっている。

この文が筆者の強いメッセージであることに気づけていると、後半の解釈が非常に楽になる。

「王義之という書道家でさえここまで勉強しているのだから、道徳を極めようという人間はもっともっと勉強しなければならない」


・最初に述べたとおり「墨池之上~」から一見話が大きく変わったように見える。

「今は州の学舎となる」の「今は」から、「昔は王義之の故事があった土地だった」という意味を導けるかどうか。

正統な方法だとは思わないが、共通テストでは先に設問の構成に目を通しておいたほうが明らかに有利になるケースが多い。問7に先に目を通していて、この「墨池」の意味を理解していたほうが読解は間違いなく有利だっただろう。そうすると「恐其不章也」以降の意味が具体的にイメージしやすかったのでは。

そして、そこがイメージできていれば問5が容易に解けるのである。


・「豈愛人之善~」以下はかなり大意がつかみにくいが、大意がつかみにくいときこそ「メインとなるメッセージ」に立ち返って考えたい。

「王義之という書道家でさえここまで勉強しているのだから、道徳を極めようという人間はもっともっと勉強しなければならない」

というメインメッセージと連結させることができれば、「一能=書道」の能力しかない王義之と、「仁人荘子=仁愛を極めた者」との対比をもとに文章を解釈していくことができる。

すると、あくまでも言いたいのは「仁愛を極めた者になるべく、王義之以上の努力をすべき」というメッセージなのであって、本当の主人公は王義之ではないことがわかる。


「豈」の多様な用法が出題されていること、メインとなるメッセージがかなり地味な形で提示されていて気づきにくいことから、第1日程よりは明らかに難化していると思います。


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