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「国語力」とは結局どういう意味なのか?

うちに入塾を希望される保護者の方の多くは


「国語力はすべての勉強の基本だと思うので、早いうちから身につけさせたい」


とおっしゃいます。

本当にそのとおりだと思いますし、そういう期待をもって入塾してくれるのは本当にやりがいを感じます。


ただ、この「国語力」というワードは非常にあいまいで、使う人と使われる状況によってものすごくニュアンスが変わってくる言葉です。


もともとの語義というか、文字どおりに解釈するならば

「第1言語・母語を運用する能力」


と定義するのがシンプルでわかりやすいでしょうか。

英作文をするときも「国語」と出てきたら「Japanese」と訳すじゃないですか。

ということは、日本語を扱う能力をすべて「国語力」と考えるのが自然であるように思います。

つまり、こんな感じ。



日々のあいさつや、ちょっとした会話、冗談を言ったり理解したりすること、言葉たくみに人をだましたり、逆にだまされないように嘘を見抜く力、こんなものも全部「国語力」と言ってしまえば言えるわけです。

最近では、大学受験に「契約書・説明書」の読み取りなどを出そう、などという動きもありますよね。


極端な話

「松屋で自分の食べたいメニューとトッピングを選んで、適切に食券を買っておつりをもらう方法」

なんかも「国語力」と言ってしまえることになります。

だって母語の運用能力のひとつには違いありませんから。

こないだ塾の下の松屋で食券の買い方がわからず困っていた人のために全部食べたいもの聞いて、持ち帰りか店内かも聞いて、イチから買い方教えてあげたんですよわたし。やさしいでしょう。


ただし、これに対して受験国語を「国語力」の代表としてとらえると、見方は大きく変わります。つまり、国語の授業で扱われるようなものが「国語力」だという発想です。

すると、こんな感じになるでしょう。


「長い文章、難しい文章を読んで、筆者の『イイタイコト』を読み取ってまとめたり、選択肢を選んだりする力」

のようなものを「国語力」だととらえる人も当然いるわけです。


「松屋での食券の買い方」とはえらい違いで、基本的に今の「国語の先生」が学校や塾で生徒に教えるように求められているのはこっちですね。

最近は前者の幅広い意味での「国語力」が求められてきているとはいえ、あくまでも主流はこっちなのは現実として間違いありません。

わたしが松屋の食券の買い方を塾や予備校で教えるようになったとき、それが「国語力」の意味あいが逆転したときなのかもしれません。


で、これら多様な「国語力」が混在して整理されずに用いられると何が起こるのか。


前者の幅広い意味での「国語力」育成を、ぜんぶ国語教師・国語講師の仕事だと思われると、国語担当者としてはちょっと困ってしまうんですね。

Twitterで国語力うんぬんで揉め事が起こるときはだいたいこういうパターンです。


もう一度図を見てみましょう。

この図に書いてあるのはわたしが思いつきでサラッと書いたものしか入ってないですから、現実の「日本語を用いた活動」ってもっともっと多様で幅広いものです。


で、これを全部国語教育、国語教師で面倒見ろと言われたら

「無理に決まってるだろそんなもん」


と返すしかないですよ、さすがに。

というか、契約書とか説明書の見方とかって「本来家庭科で教える領域では」とも思いますし(今でもクーリング・オフとか扱いますよね?)、そもそもそれって学校で教えるようなことなのか? と疑問を持つ方もいることでしょう。


授業時間には限りがあるし、教師の専門性も無限に広げられるものではありません。

やれるリソースには限りがあって、その中でどういう教育がよいのかを検討せねばならない。


英語もそうですよね。

4技能4技能と言うだけ言って、教師のリソースと専門性、授業時間の有限性についてどれだけ考えてるの? と言わざるを得ない。

サイトにも書きましたが、そのリソース確保について無策なまま4技能を進めたところで

「4技能を追う者、1技能をも得ず」

になるのは明白です。

この調子だと、国語教育も英語教育同様

「社会からの要求だけは増え続け、リソースはまるで無い」

という状態に陥るんじゃないかなぁ、と危惧しています。


若干話が逸れましたが、つまり前者の幅広い意味での「国語力」は、どう考えても国語教師だけが責任を持って育てられるようなものじゃない、ということが言いたいんですね。

他科目の教師や家庭などなど、うすっぺらい言い方ではありますが

「社会全体で育てる」

ものに他ならない。というか、それしかやりようがない。


しかしです。


このように主張すると、

「じゃあ、国語教師が責任を持って教えるべき『国語力』とは何なのか?」

「国語教師の専門性、存在意義はどこにあるのか??」


という反論も出てきそうですよね。


もっともな話ですし、この反論に対して誰もが納得するすっきりとした答えを国語を教えるわれわれが社会に対して出せているかというと、明らかにNoでしょう。

「国語を教える人間はどの領域の、どのレベルまでを自らの責任として担当すべきなのか?」

わたしも明確にコレだと答えられるわけではないんですが、「コレが国語教師が持つべき専門性なんです、少なくともわたしはそう思います」と主張できるだけの理論武装はしたほうがいいんだろうと感じることが最近多いわけです。

「選択肢の切り方テクニック」が今後求められる国語力でないことは明白だと思いますけどね。


この話、もうちょっと書きたいことがあるんですけど長くなってきたので続きは次回。

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